コラム

ビアトリクス・ポターとピーターラビット


子供の頃、お母さんが読んでくれた絵本。皆さんは覚えていますか。私の小さい頃は、『桃太郎』『一寸法師』『かちかち山』『猿蟹合戦』が定番でしたが、今は世界中のいろいろなお話が日本語に訳されていて、楽しみはきっと何百倍にも増えていることでしょう。

実は絵本は、子供の成長に大きな影響を与えています。小さい頃に聞いた物語から自然に社会のルールを学び、協調性や公共心といった基本的な生活習慣を学ぶことができるのだそうです。ある調査では、「読書が好きという学生の50%は小さい頃に読み聞かせの経験を経ていて、嫌いな学生では30%ほどしかその経験がなかった」と報告されています。子供時代に、絵本を読んだり読み聞かせをしてもらったりすることが、幅の広い考え方のできる人格形成にも役立っているようです。

絵本といえば、高校の英語検定教科書の編集に携わってもう10年以上になりますが、いつも生徒や先生方が興味を持ってくださる題材のひとつにビアトリクス・ポターと彼女の書いた絵本の話があります。その理由は、「あるところに、4匹の小さなウサギがいました。名前は、フロプシーに、モプシーに、カトンテールに、ピーターといいました。」で始まる『ピーターラビットのおはなし』を書いたポターが、実に魅力的な女性であったからかもしれません。

ビアトリクスは、1866年にロンドンで生まれ、ビクトリア朝の典型的な家庭で乳母に育てられました。小さい頃から動物が大好きで、弟と一緒に自宅の勉強部屋にいろいろなペットを飼っていました。カエル、トカゲ、イモリ、カメ、ウサギなどを熱心に世話して観察し、たくさんのスケッチも残しています。後の絵本に登場する有名なキャラクターのほとんどは、実際に飼っていたペットを題材にしたもので、ベンジャミンやピーターという名前のウサギも飼育していました。一家は画家のミレーと親交があり、彼の影響でビアトリクスも王立美術院で絵画の勉強をしたのですから、彼女の絵は本物ですね。キノコを丹念に観察してスケッチし、これをもとに菌糸の発生に関する科学論文も学会に提出しています。

1893年、かつて自分の家庭教師をしてくれた女性の5歳になる息子ノエル君に、ビアトリクスは絵入りの手紙を書きました。病気療養中のノエル君に宛てた手紙は、「親愛なるノエル君へ。何を書いたらよいのかわからないので、4匹の小ウサギのお話を書くことにします。」で始まっています。数年後、これを絵本として出版しようと、いくつかの出版社に送りましたがすべて断られ、しかたなく自費出版しました。1902年になって、フレデリック・ウォーン社が『ピーターラビットのおはなし』を、1シリング(現在の10円位)で販売し、全部で23冊のピーターラビットと仲間達の絵本が次々と世に出ることになりました。これが世界で一番愛される絵本となったのです。

ビアトリクスは小さい頃から、休暇には家族でスコットランドや湖水地方に滞在し、田園のすばらしさを知りつくしていました。観光化や産業開発が自然を脅かしていることに大変心を痛め、ピーターラビットの絵本で得た収入をもとに、湖水地方のソーリー村にあるヒルトップ農場を買い取ります。さらに、自然景観や歴史的な名所旧跡の保存を目的とする団体であるナショナルトラストに寄贈するために土地の購入を続けました。フレデリック・ウォーン氏の息子ノーマンと婚約してたった数週間でノーマンは白血症のため急逝。茫然自失の状態から再起し、ヒルトップ農場の経営を通して弁護士ヒーリスと結婚した後は、湖水地方に住んで農場経営にほとんどの時間を割くようになりました。木靴を履いて泥の中を歩き、迷子の羊を追って丘を歩き回りました。農場の動物たちといる時が一番幸せだとビアトリクスは語っています。絶滅の危機に瀕していた羊の品種の保存に全力をあげ、1930年には全英ハードウック種牧羊協会初の女性会長に就任しました。農園主としての使命を達成することに喜びの日々を送ったことでしょう。

1943年、ビアトリクスが亡くなると、15の農場を含めて4,000エーカーもの土地がナショナルトラストに寄贈されました。自然の恵みを後世に残す手助けをすること、それはビアトリクスを豊かに抱いてくれた大自然への恩返しだったのかもしれません。

たった1冊の絵本にも、ひょっとすると何10冊分ものすばらしいエピソードが隠されているかも知れませんね。ビアトリクスはかつて、「わたしは『見える目』を持っていることを感謝しています。」と語りました。たとえ、東京の喧騒の中にいても、梅雨時のじめじめとした季節であっても、素足に大地を感じ、草の息を聞きながら、さわやかな風のそよぐ高原を自由に歩きまわれる喜びを思い出させてくれるものは、意外にも近くにあるのではないでしょうか。

              




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